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Private History

1.日本を追い出された不良・非行少年

 

1979年2月28日、まだ未成年だった頃にドイツに来ました。自分では、当時そのことを知らなかったのですが、ドイツに来たと言うよりは、日本を追い出されたという方が正しい表現です。高校2年になるとほぼ同時に中退して家を出て、喫茶店に勤めたり、土方をしたりしていました。高校を中退して家を出た理由は、当時かなり厳しかった父親から、「親の言うことを聞けないのなら、家を出て自分で生活してみろ!」と言われたためです。

 

どのくらい厳しいかったかというと、居間には常に竹刀が置いてあり、父親の言うことを聞かないと、すぐにその竹刀でひっぱたかれていました。いつだったか、恐る恐る抗議をした時、「お前はまだ幸せな方だ!俺はお前のおじいさんに丸太でぶん殴られたんだぞ!」と言われて何も言えませんでした。竹刀のないところでは、叱る言葉よりも先に、手か足が飛んできました。手の場合はビンタかゲンコツ、足の場合は蹴りです。

 

蹴りの時は、父親の足がかなり短足だったので、ちゃんと届かない失敗も時々あり、そういう時はバツが悪かったのか、代わりの罰が続かずに助かりました。少し目立った悪さをした時には、とても器用だった父親から、直々手動バリカンで坊主にされました。学校に行くと野球部の連中から「お前、野球部じゃないのにどうして坊主なの?」と言われたことを今でも良く覚えています。

 

誤解のないようにしていただきたいのは、その頃の私が、どうしようもなく手のつけられない悪ガキとかであったわけではなく、むしろおとなしい方であったことです。それは当時の成績表の、先生からのコメントを見ていただければ信じていただけると思います。最近、二男一女の父親になってつくづく思うのは、子供たちに対してどんなに腹がたっても、「出て行け!」とか、「親の言うことを聞けないのなら、家を出て自分で生活してみろ!」とは、決して言ってはいけない禁句であるということです。

勢いよく家を出たのは良いものの、当然のことながらお金がありません。自分で生活を始めるには、まず住む場所となるアパートが必要です。友だちからお金を借り集めて、何とか敷金や礼金、最初の家賃を用意してアパートを借り、急いで雇ってくれそうな喫茶店を見つけました。17歳という、本当の年齢を言うと雇ってもらえないので、2歳ほど年を偽っていましたが、その頃は老けて見えたようで疑う人はいませんでした。25歳位と間違えられたこともありました。

 

アパートでの生活を始めた頃、最初は布団も無かったので、家から持ち出した自分の洋服を何枚もかけて寝たのですが、時期はまだ春先。寒くて夜中に何度も起きました。寒さで寝れないという辛さを生まれて初めて味わいましたが、あのつらさだけはもう2度とご免だと思ったのを覚えています。雇ってもらえたのはスナック喫茶だったので、軽食も取り扱っていて、従食、つまり従業員用の食事が毎日1食付いていました。でもさすがにお金がないからといって頑張って我慢しても、1日1食の従食では身体が持ちません。

 

17歳といえば、育ち盛りの伸び盛り。勤め先のそのスナック喫茶で、本来はゴミ箱行きのトーストに使う食パンの耳を毎日もらって持ち帰り、それをかじってしばらく飢えをしのぎました。パンの耳につけるバターもジャムも買えず、味気なくそのまま食べていたので、現在の私の食パン嫌いはそこからきているのかもしれません。そうこうしている間に、悪友のひとりからお給料が良いという土方の仕事を教えてもらい、喫茶店はさっさと辞めて職を土方に変えました。給料が良くなったので、やっと普通の生活ができるようになったのでした。土方の給料は結構良く、仕事時間は夜中である上に、力仕事できつかったのですが、1970年代の頃で月に30万円前後も貰えたということは、当時のサラリーマンより稼ぎが良かったと思います。

高校を中退して喫茶店に勤めたり土方などをしていれば、そのゆく末はもう知れています。いわゆる不良少年、非行少年と呼ばれる部類に入ってグレてしまいます。夫婦が円満でないと子どもがグレるというのは本当のお話しです。うちでも両親の仲はかなり悪く、しょっちゅう喧嘩をしていました。家を出た理由は父親の厳しさ以外にも、両親の不仲があったのです。その当時の自分の出で立ちですが、眉毛を剃ってメッシュを入れ、近くに似たようなグレた若者、つまりツッパリがいれば必ずガンを飛ばします。

 

メッシュとは、髪の毛の一部を脱色して金色にすることです。ガンを飛ばすというのは、喧嘩を売るために相手を睨みつけることですが、睨み合った時に怖くなって目をそらした方が負けとなり、睨み合いがそのまま続くと喧嘩に発展します。面白かったのは、近所に商業大学があったのですが、そこの大学生のツッパリ風とガンの飛ばし合いをしても、相手が尻込んでしまっていたことです。相手は大学生。こちらは17歳。眉毛を落としてメッシュまで入れていると、かなりハクがあるように見えるのか、一目置いてくれるようです。

 

たいしたことがない弱いツッパリは、すぐに目をそらしてしまうことにより、ガンの飛ばし合いの勝負はすぐについてしまうのですが、リスキーだったのは、自分の喧嘩の腕を試してみようと思っているようなツワモノは、まるで「待ってました」と言わんばかりにガンの飛ばしあいに乗ってきます。一度はガンを飛ばし返した相手が悪く、かなり喧嘩慣れしたチョン高生でした。チョン高生とは、朝鮮高校の学生のことです。彼らは当時(今でも?)、日本のツッパリ高校生の間では恐れられていた存在でした。チョン高生は数も少なく異質な存在で、もめると後で集団で仕返しにやって来てボコボコにやられ、家まで来られて火を付けられると言われていたのです。

 

そんなチョン校生のガタイ(身体)がデカくて喧嘩慣れしたヤツとガンの飛ばし合いを始めてしまい「しまった〜」と後悔してももう後の祭りです。ガンの飛ばしあいが少しの間続いた後、相手はすかさず「俺はXX朝鮮高校のXXだ!」と叫けびながら素早くチョーパンを入れてきました。チョーパンとは頭突きのことです。チョン高生を相手にするのはそれが初めてのこと。相手の喧嘩慣れした早業のチョーパンがまともにこちらのコメカミに決まってしまい、額からそれこそ本当に血が「ピュー」と吹き出してしまってTKO負けとなりました。

カツアゲはダサいと思ったのでしなかったものの、その他ではかなりの悪さをして留置場にも入れられました。カツアゲとは、弱い奴から金品を巻き上げることです。仲間と一緒にシンナーを吸うのには、4畳半一間の自分のアパートが最適で、いつも溜まり場になっていました。他の仲間には、親がいる自宅しか場所がないからです。現在、自分の健忘症がひどいのは、あの頃のシンナーのせいかも知れません。暴走族だったわけではありませんが、彼らもより多くの人数を集めた方がカッコいいので、何度か暴走族の先輩から集会に誘われて参加したことがあります。

 

そんな暴走族の集会で、運悪くパトカーにつかまり車から降ろされて、自分の車の後方で警官たちから注意を受けている時でした。ふと気がつくと車の後部座席に乗っている後輩たちがこちらに注目しています。警官に頭をペコペコ下げて謝っているどころではありません。後輩が見ている手前、カッコをつけなければなりません。意地でもツッパリ通すしかなく、警官にガンを飛ばしたり、偉そうな態度を取ったり、相手の靴につばを吐きかけたりしました。案の定、後で車に戻ると後輩たちから「先輩、シブかった(かっこ良かった)っすね!」と、狙った通りに羨望の眼差しです。車が非合法な改造車とかいうこともなかったこともありますが、たぶん幸いにも心の広い警官だったのでしょう。何もされずにそのまま車に帰されたのです。矢沢永吉のキャロルや、館ひろしのクールスが全盛期の時代でした。

留置場に入れられていた時は、外から丸見えのトイレには恥ずかしくて困りましたが、これから新しい組を作るとかいう若いヤーさんがいて、「俺がここを出たら新しい組を作るからお前も来ないか?」とスカウトをされたりしました。でもその人は、ヤクザ映画に出てくるようなかっこいいヤクザではなく、どちらかというとちょっとダサく思えたので、丁重にお断りしました。そんなことを繰り返している息子を見かねた祖父と父親が、「これはいかん、このどうしようもない愚息をどうにかするには環境を変えるしかない!」と真剣に考えたようでした。

 

その結論として出たのが、その頃ドイツにいた父親の弟、つまり叔父のいるドイツにあの手この手で行かせる方法でした。孟母三還という中国の古い言葉があるそうです。子どもを立派に育てるには、良い環境を選ぶしかないという意味だそうです。正にその言葉にピッタリの方法でした。当時住んでいたアパートに父の姉である伯母が何度も説得に来たり、いろいろな甘い誘いで結局ドイツのオジのところに一度遊びに行くことになったのが1979年の2月28日でした。

 

つまり、お恥ずかしいながら、私の渡独の理由は、海外に興味があったわけでも、ドイツ語を勉強したいと思ったわけでもなく、何か大志を抱いて来たなどということも勿論なく、単に日本から追い出されて来たのでした。ドイツに来た理由と言えば、私のように日本を追い出されて来るのも珍しいかもしれませんが、叔父のその理由にも面白いものがあります。叔父が高校生だった頃、クラスメートのひとりに、ある大手食料品メーカーの御曹司の親友がいて、その彼がアメリカに留学したのです。

 

その彼から当時日本にいた叔父に届く手紙に「ブロンドの女はいいぞ~」と書いてあったそうです。それを真に受けた叔父はさっそく父親、つまり私の祖父に相談。それを真に受けた私の祖父は当時、靴のメーカーをしていたのですが、ドイツに国立の靴の学校があることを突き止めました。そして靴の国立学校があるドイツに行くのなら留学しても良いというお許しが出たのでした。

2.渡独1年

 

父親や叔父からみると、建前はドイツに住む叔父の観光訪問でも、本音は本人の知らないところで更生のために日本からドイツに追い出された訳です。海外や、ドイツという国に興味があったわけでもありません。海外を知らなかったので比べようがありませんが、実際にその頃日本が一番だと思っていました。ドイツ語を勉強したいと思ったわけでもなく、何か志を抱いて来たなどということもない遊び盛りの若者が、娯楽などが何もなく、言葉も通じない国に来て楽しいわけがありません。

 

訪独の本音、本当の意味を知らない本人は、来てしばらくして叔父に、「観光はもう十分だから日本に帰る」と言いました。すると叔父は、「何だ、俺の仕事を手伝いもせずにもう帰るのか!」 と言うではないですか。本音を知る叔父は、そう簡単に私を日本に返す訳にはゆきません。その言葉がどういう訳か私の肩に重くのしかかり、帰ることができませんでした。

 

その何年か前に、私がまだ学校に通っていた頃、出張で日本に来た叔父は、私に向かって言いました。「お前のような丈夫そうな若者が来て俺の仕事を手伝ってくれたら助かるんだがな~」そう言われた記憶がよみがえったのかもしれません。19XX年にドイツに来た叔父はその当時、プチプチと指で押しつぶして暇つぶしをする梱包材製造会社の社長、レストラン、スーパー、食料品店の経営、食料品や鮮魚の輸出入や卸しなど、いろいろなビジネスをしていました。日本人の働き手の慢性不足に悩まされていたのです。

 

結局叔父の会社で10年ほどお世話になることになり、渡独9年後の1988年に妹の結婚式で一度だけ日本に帰った以外は、ずっと叔父の会社で働きました。腰を据えてドイツで働く以上は、ドイツ語が不可欠だということで、当時ドイツ語の語学学校で最も良いと言われたゲーテ・インスティトゥート(以下ゲーテ)に父親のスネをかじって通うことになりました。合計で1年以上もかけて、当時のゲーテ最上級である、オーバーシュトゥフェというクラスまで行きました。

 

こちらは勉強に慣れていない高校中退の劣等生。それぞれ上下2つか3つのクラスに分かれた、グルントシュトゥフェという基礎コース、ミッテルシュトゥフェという中級コースの階段を順調に上がって行くことができません。つまりダブってしまうのです。でもそこはよくしたもので、ゲーテはドイツ全国に何ヶ所も散らばって存在し、ダブってしまいそうな時は、別の土地にあるゲーテに移りました。そうすることでダブりを誤魔かす訳です。転校の理由は、勿論本音のダブりそうだからは隠し、ドイツ各地を見て回りたいというのが建前でした。

 

そうしてリューネブルグ、ローテンブルグ、フライブルク、シュベアビッシュハレの4ヶ所のゲーテで1年以上もかけて何とか最上級クラスまで行けたのです。父親のスネをかじっている以上は、不良少年や劣等生だからだから勉強はできないと開き直り続けている訳にもゆきません。劣等生なりに一生懸命勉強しました。悔しいことながら今でも覚えているのは、ゲーテの学生寮で、フランス語圏のスイス人と2人で相部屋だった時に、学校が終わる午後はいつも遊び呆けている彼から言われた言葉でした。

 

「お前、遊ばずに一生懸命勉強している割にはあんまりドイツ語が上手くならないな〜」… その頃は、同じ町で複数のコースに続けて行き、コースとコースの間にある約1週間の休みに、スキーリゾートにあるそのスイス人の自宅に遊びに連れて行ってもらい、タダで泊めてもらって毎日スキー三昧をさせてもらいました。よって、「お前らみたいにラテン語というひとつの言葉を元にしているのと違って、全く違う言語を使う日本人にドイツ語は難しいんだ」という負け惜しみを言うのはやめておきました。

 

英語もフランス語もドイツ語も、あるいはイタリア語やスペイン語、ポルトガル語まで、どれもラテン語を元にしていて似ているので、彼らにとってはそれらの言語を習うのは容易なことです。同じアルファベットを使うということから始まり、経済や医学などの専門用語になると、スペルがひとつかふたつ違うだけでそのまま通じてしまいます。イタリア語とスペイン語などは、彼らがそのまま自国語で話し続けても、7割位は通じ合うそうです。だから、ヨーロッパ人で数ヶ国語を話す人に会っても、驚く必要はありません。

 

ちょっと大げさに言えば、標準語、関西弁、東北弁のいずれも話せる日本人のようなものです。さて、1年以上も通ったゲーテ、頑張って勉強もしましたが、良い経験もできました。先ず第一に、日本人であるということだけでチヤホヤされたのです。当時は車、家電、オートバイやカメラなどの日本製品が世界中を席巻していました。確かオートバイなどは、日本製が世界シェアの7割も8割も占めていたと記憶しています。さらには柔道、空手はかなりの人たちに知られていて、中には剣道、茶道、書道、華道などを知っている人たちにも時々会いました。

 

ゲーテには世界各国から学生が集まっていましたが、特に日本人は好感を持たれていました。ラテン系の人たちは愉快で楽しいだけではなく、日本人のように本音と建前などはないので、表現も行動もストレートですが、女性が男性に示す態度もそのままストレートで、日本人男性があちらの女性に気に入られると、すぐにアプローチされます。そういう女性の態度に慣れていない日本人男性はそうなるとイチコロです。

 

そういう私もチェコのブロンド美女からプレゼントを貰ったり、食事に誘われたりと、とても素敵なひと時を過ごすことができました。叔父の高校時代の親友の、「ブロンドの女はいいぞ~」の意味が分かるような気がしました。後で知ったことですが、東欧の人たちにとって、日本の素晴らしさは日本製品以外にも、日露戦争であの強国ロシアを打ち負かしたアジアの小国ということで知られています。当時は多くの東欧諸国が強国ロシアに苦しめられていたので、そのロシアを破った国ということで、おじいちゃん、おばあちゃんたちから語り継がれているのでしょうか。

 

中には、日本は明治維新という凄いことをしたと知っている人までいました。そうこうしている内に、そろそろ生意気にドイツ語を話せるようになってきたゲーテの後半では、歯を4本も抜かれてしまった歯医者さんで働いていた、ドイツ人の看護婦さんと仲良くなりました。当時、鬼の牙のような八重歯が上側に2本もあり、大きく笑うと上唇がそこに引っかかって元に戻りませんでした。日本の歯医者さんからは、「それらを抜くと、前歯全体がグラグラになるから抜かない方が良い」と言われていたのですが、ドイツの歯医者さんは、「そんなことはない。抜いた方が良い」と言ってそそくさと抜かれてしまいました。

 

そんな歯医者さんに勤めていた彼女でしたが、お陰様でチェコのブロンド美人以外にも、ドイツ人の若いブロンド女性とも楽しい経験ができました。こうしていろいろな国の人たちと交流を持つことができ、いろいろなことを知り、いろいろな経験を積むことができたのです。そんなゲーテを卒業すると、早速叔父の会社で仕事を始めることになりました。最初の配属先がドイツのスーパーで、周りはみんなドイツ人。

 

1年以上かけて磨き上げたドイツ語を、早速実践で試すことになりました。そこで嫌という程味わったのは、スクールイングリッシュならぬスクールジャーマンと、実践のドイツ語の途方もなく大きな違いでした。スーパーで働くドイツ人に話しかけられると、何を言ってるのかサッパリ分かりません。

 

それもそのはず、こちらはきれいな標準ドイツ語のニュース放送や、丁寧にゆっくりしゃべってくれる語学学校の先生、そして知っている単語数もレベルも近い、同じクラスの生徒のドイツ語なら慣れていて良く分かるのですが、地元の訛り丸出しで、遠慮も何もないスピードで喋りまくるドイツ人のオバちゃんたちのドイツ語は、あまりにも難し過ぎたのでした。それでも1年たち、2年がたち、方言も理解できるようになり、そのスピードにも慣れてついていけるようになりました。

3. オートバイレーサーを目指す

 

10年という長い勤務年数の間には、さまざまな業務経験の他に、プライベートでもいろいろな経験を積むことができました。それもドイツ語ができたためです。ドイツに住む大多数の日本人は駐在さんです。駐在さんは、普通英語ができてもドイツ語ができません。ちょっと不思議な気もしますが、ドイツに住む日本で、ドイツ語ができる人というのは、英語ができる人と比べるとかなり少ないのです。そこでドイツ語ができると、いろいろな場面で頼りにされます。頼られた時に期待に応えれば感謝されます。感謝されれば嬉しくなり、ますます頑張ります。そういう好循環が起こることになり、それらは全て自分の糧になります。

 

ドイツ語ができるということで、普通日本人がドイツで簡単に経験できないことも経験できます。勤め始めて数年たたち、ドイツ語にもますます磨きがかかっていましたが、僅かながらもお給料の一部を貯め続けた結果、ある程度の貯金ができました。その頃、オートバイが好きだったので、日本に帰る前に一度は俗に言うナナハン(エンジンのサイズ750cc)より大きい、日本では海外からの逆輸入でしか手に入らない珍しいオートバイに乗っておきたいと思いました。そこで中古のKawasakiの1.000cc のオートバイを見つけ、購入して乗り始めました。

 

オートバイに乗ると、ついつい不良少年だった当時が蘇ってしまうのでしょうか、それとも若気のいたりでしょうか、今考えて見るとかなり無謀で危ないことですが、ストレスがたまっていてちょっと酔った夜、ナンバープレートをはずしてオートバイに乗っていました。もう時効なので白状しますが、最初から飛ばすつもりなので、警察に捕まらないようにナンバープレートを外すのです。飲酒運転はひょっとすると私のさがかも知れません。

 

後で詳しく出てきますが、その後の人生で飲酒運転で捕まり、2度も11ヶ月の免停を受けているのです。そういった夜のライディングでは、一度ヒヤリとしたことがあります。赤信号で丁度パトカーが隣に並び、ナンバープレートがないので横に止まれと言われました。これはまずいと思って早速急発進して逃げ出し、デュッセルドルフの街中でカーチェイスならぬバイク&カーチェイスとなってしまいました。デュッセルドルフの街中には路面電車も走っているので、所々にツルツルとよく滑る鉄の線路が出ています。赤信号を無視し続けて走るオートバイのタイヤの下のアスファルトの路面に混ざり、時々現れる線路の上で、後部車輪が滑ってヒヤリと汗が出たりするものの、何とか転倒せずパトカーを巻くことができました。

 

さすがバイクは車より小回りが利いて早いのでした。つまり、いつの間にかデュッセルドルフのゴーストライダーになってしまっていました。そんなことをしていたらまずいと思ったのか、思わなかったのか、オートバイを修理を持っていく先のオヤジさんに、「バイク乗りなら一度はヌルブルグリングという本場のサーキットを走ってみるものだ」と言われました。調べてみると、ヌルブルグリングというレース場は、レースの世界では有名な所でした。

 

少し古くなりますが、当時のF1レーサーとして有名で、その後航空会社を創業したニキ・ラウダが顔に火傷をおった事故が起きたレース場です。彼はそのひどい火傷のために一生帽子をかぶり続けることになりましたが、そのレース場は何とデュッセルドルフから南にわずか1時間半ほどで行ける位置にあるのです。レースが行われていない時は、お金を払えば一般車も通行できるのです。早速愛車のKawasaki で行ってみることにしました。

 

一周約20kmもある森の中のアップダウンを走る長いコースです。あちこちのカーブが崖の上にあり、ガードレールが付いています。飛び出してしまえばもう命の保証はありません。なぜあんな危険なレース場があるのか。今日のレース基準では危険過ぎてとても使えるところではありません。傾斜を上り詰めた先にカーブがあるような所もあり、コースを熟知していなければ、先の見えない直線などは亀のようにゆっくりとしか走れません。

 

コースを一周する間に、格好悪くも二人乗りのバイクや車に何度も追い抜かれたのですが、一周走り終わって爽快な気分になると「これだ!自分がやりたいのはこれだ!」と思ってしまいました。そしてレースにのめり込むこんでしまうことになり、幸いにも公道でのゴーストライダー、つまりオートバイの非合法走行はなくなりました。オートバイレースには結局3年間のめり込み、一時はそれでメシを食っていけないだろうかとまで考えましたが、そのスタートはあまりにも遅過ぎ、飛び抜けた才能もなく、適度な競争は面白いものの、狭いカーブでの突っ込みあいなど熾烈な競争には向いていない性格であることにも気がついて3年で挫折してしました。

 

日本でバイクに乗っていた頃は、周りの仲間と比べて一番早かったのですが、そんなレベルでは、食べてゆくという世界クラスや国のトップレベルというのとは次元が違い過ぎました。飛び抜けて早く走れるという才能が欠けている以外にも、あまりにも転倒が多過ぎるということも致命的でした。転倒するたびにオートバイの修理代がかかるのはまだお金で済むものの、あちこちに怪我をして、そのままでは身体が持ちません。

 

オートバイレースでは、スタートの前に車検があって、いい加減な改造や安全性の低い点があるとはねられてしまいますが、その時にヘルメットもチェックされます。ヘルメットは、転倒した時などに一度強いショックを受けると弱くなってしまい、その役を果たさなくなります。車検の際にもしヘルメットに転倒の傷跡が見つかると、傷の無いヘルメットを持って行くまでレースには出させてもらえません。

 

そういったことから、当時の自分のアパートには、練習では使えても、レースには使えない十数個のヘルメットが転がっていました。3年間の間に転倒して負った傷は、骨折3ヶ所、関節破壊1ヶ所、縫い跡何針もです。一度は転倒して気を失い、救急車で病院に運ばれて2週間の入院。腎臓内出血と尾骶骨骨折でした。どういう訳かそういう星の下に生まれたらしく、子どもの頃から怪我をしやすい体質・性格なようで、体中に2桁の骨折ヶ所があり、切り傷で縫い合わせた傷跡も身体中全部で20針以上あります。

 

そう聞くと、スタントマンのように危ないことばかりをしているのかと思いがちですが、そういう訳ではありません。骨折が多いので、どこかに強くぶつけた打ち身の時に、それが骨折かそうでないか、切り傷の時に縫う必要があるかないかなど、怪我の程度がすぐに分かる怪我のプロフェッショナル(?)です。ちなみに現在最後の怪我は去年の仙骨骨折で、トランポリンをしていてバランスを崩し、トランポリンのマットを張っている金属製の輪にお尻から着地。

 

骨折ヶ所は歳を取ってもいまだに増え続けています。その前の怪我は、右手の指が隙間にはみ出ているのに気が付かず、上側が斜め空きしている頑丈なドアサイズの窓を左手で押し閉めて挟んでしまいました。止血をして家内の運転する車で病院に急行でした。3針ほど縫って、縫合針数も相変わらず増加中です。その時は多少酔っていたとはいえ、泥酔していたわけではないので、そそっかしいのでしょうか。

 

そういう訳で怪我の理由は無鉄砲さからくる訳ではなく、やはり何かそういう因縁のようなものを持っているようです。次はどんな怪我が来るのかと考えるとスリル満点です。最近、ボルダリング(壁登りスポーツ) を始めたり、ロンダート>バク転>バク宙の練習をしているので、きっと何かその辺の怪我になることでしょう。トランポリンの怪我の時は、バク宙の練習でしたが、その後拙宅の一番上に住んでくれている元カヌーの日本代表、現在アクロバットサーカスダンス(とでも言うのでしょうか) の日本代表の若い日本人女性の指導のお陰でできるようになりました。

 

後で詳しく出て来ますが、私の周りではありがたいことに、どうもその時々で必要な人、物、事が向こうからこちらにやって来てくれるような気がします。その運の良さは時々怖いくらいです。くだらないことでいうと、車を駐車するスペースで困ったことがありません。少し大げさに言うと、目的地に着くと、目の前に駐車してある車が、「どうぞ、ここに駐車して下さい」と言わんばかりに出て行ってくれるのです。実際にそういう時も多々あります。それを世間では引き寄せと言うようですが、そんなことは勿論意識したことはありません。

 

でもついているのは人、物、事に関してだけで、そこにはお金は含まれていないようなので、それだけはとても残念です。そんなこんなで叔父の会社でお世話になった約10年間、プライベートでも面白かったのですが、とにかく一番ありがたかったのは、叔父が手広くいろいろなビジネスをしていてくれたお陰で、いろいろな業務を経験させてもらえたことです。レストランやスーパー、食料品店での実際の接客業務、魚の卸し業務全般、食料品の購買、輸出入全般、各店舗の在庫、売上・利益管理や社長のサポートまで、さまざまなことを経験させてもらうことができました。

 

大きなマグロを含む鮮魚の仕入と卸しや、アジやサバなどを下ろす作業を長く行っていた頃は、お風呂に入っても魚臭さが身体から取れず、こんなことをしていて一体自分の将来に役に立つのだろうかと思ったことが何度もありました。でもそこで嫌になってやめてしまうのではなく、目の前に与えられたことをずっと続けることによっていろいろな経験を積ませてもらえて、それらが全て間違いなく自分の人生の肥料になっていると思います。例えば魚を3枚に下ろしたりすることが上手なことは、実際に現在家内にとてもありがたがられています。

4. 最初のプー太郎生活

 

叔父の会社を10年ほど手伝わせてもらった頃に、「おい、俺はもうそろそろ引退するぞ!」と叔父が言うではありませんか。「え〜、まだ40代かそこらで若いのに何でまた…」とは言いつつも、心の中では「やった〜、いよいよこれで日本に帰れる!」と喜びました。早速会社を辞めさせてもらい、しばらくイギリスに英語を勉強しに行くことにしました。叔父の会社を真剣に手伝う決心をした後に、勧められて父親のすねをかじり、1年以上もゲーテという有名なドイツ語学校に行かせてもらったので、ドイツ語の方はその頃何とかできましたが、英語の方がさっぱりでした。

 

そのまますぐに日本に帰ってドイツ語しかできないまま就職するよりも、英語もできた方がはるかに有利だと思いました。運良く株で儲けたあぶく銭が、当時2〜3百万円ありました。それでイギリスの英語専門学校が集まっている南の海岸線の町の一つである、ボーンマスという町の学校をひとつを選んで申し込んでおきました。どうして南の海岸線にある町を選んだのかというと、時期的にも留学が夏頃になり、そのころハマッていたウィンドサーフィンを週末に楽しむためでした。叔父の会社では10年間週休1日でかなりの奉仕残業もこなしたので、自分に対するご褒美のつもりだったのです。

イギリスの英語学校を申し込むのと同時に、就職活動も行いました。当時出ていた海外就職情報という雑誌を見つけて手に入れ、就職希望先企業に手紙を出すという方法です。雑誌にしては結構厚く、どんな企業に手紙を出そうかワクワクしながら見ていたのですが、求人で出ている企業のほとんどが、資格の所に大卒と明記しています。つまり私は最初からアウト。希望する資格もありません。それでもその厚い雑誌の中で、4社だけその資格が明記されていない企業が見つかり、その4社に手紙を出しておきました。

 

そうすると面白いことに、その4通の手紙を出した後の数日後、夜の12時過ぎにかかってくる電話で起こされたのです。元々私は朝型の人間で夜は弱いので、12時にはもうすっかり寝入っています。「うるさいなー、こんな時間に…」と思いながらも少し妙な予感もして電話に出ると、「XXX のXXX ですが...」と言うではありませんか。XXX は会社名ですが、何しろ数日前に日本に手紙を4通しか出していない中の1社の名前。しかも社名と同じ名前を名乗るということはオーナー社長? すぐに思い出して受話器を持ちながら身を乗り出すように背筋が伸びたような気がします。案の定、XXXマシナリーのオーナー社長、XXさんから直々の国際電話でした。

後で分かったのですが、私が書いた経歴書がその社長さんにかなり気に入られたようです。その証拠に、その会社でお世話になることになって間もなくして、その会社がパリで展示会に出た時にその社長さんに初めてお会いした時に、あれこれと質問を受けたり仕事を頼まれた挙句、アメリカの子会社に1ヶ月もコンピューター研修という名目で出張に行かせてもらえました。丁度これから履歴書や経歴書を書く人の参考になるかもしれませんが、私は履歴書にはろくなことを書けません。学歴がないからです。

 

でも経歴書には過去に経験した仕事の内容をいくらでも書けるので、嘘はないように気をつけて、かなり詳しくそして脚色して書きました。前述の通り、叔父の会社ではいろいろな仕事を経験させてもらえたので、書こうと思えば書くことはたくさんありました。夜の12時を過ぎて起こされたその電話でその社長さんは、「実はうちには既にデュッセルドルフの近くに販売子会社があるので、その子会社社長から数日の間に連絡を取らせるのでそれを待って欲しい」と言って電話を終わらせました。そして実際にもその数日後、今度は子会社の社長さんから連絡が来ました。

 

実はこれからイギリスに留学して英語を勉強する予定であることを告げると、最初は難色を示したものの、学校ももう申し込んであって支払いも済ませてあることを告げると、「分かりました。それでは留学から帰って来次第入社してください」と言われました。これでイギリスへの留学は、終わった後の就職先も既に前もって決まっていて、週末はウィンドサーフィンを楽しむという、「ルンルン」の留学になるはずでした。

 

さてイギリスで始まった英語の勉強。高校中退で英語能力が低くてもそこはやはり日本人だからなのか、聞き取りや会話よりも読み書きの方ができるせいか、入学のテストによるクラス分けで、初級レベルの中でも少し上の方、自分の実力より高めのクラスに入れられました。恥ずかしいのでそのクラスで何とかついていこうと頑張ったので、予定していた週末のウィンドサーフィンは結局諦めて一度もできずに終わり、毎日ずっと勉強をしました。ボケ〜っとして勉強をしているので、集中度と効率は分かりませんが、1日10時間は勉強したでしょうか。

ところでよく聞くお話なのですが、イギリスで英語を勉強している日本人に、別の国から英語を勉強しに来ている恋人ができてしまうというケース。私も例に漏れず、同じクラスにいたスペイン人の女性からアプローチされました。さすが情熱の国スペイン。食事に誘われたり、お出かけに誘われたりと、女性の方から平気でお誘いがあります。それでいて本人いわく、自分はかなり控え目のタイプだそうです。嫌いなタイプではなかったので、ウィンドサーフィンはできなかったものの、イギリス留学は楽しい留学となりました。

ドイツ語の勉強の時は親のすねかじり。株で儲けたあぶく銭とはいえ今回は自費。自分の人生であれほど勉強をしたことはありませんでしたが、あぶく銭で勉強したせいか、覚えた単語を忘れるのがとても早い気がするのは単なる気のせいでしょうか。イギリスには結局8ヶ月留学して、その学校では一応一番上のクラスまで終わらせることができました。ドイツ語が既にできたので、同じラテン語を語源とするだけあって比較的にスムーズに学習できたと思います。日本から来ていた人から、「あなた上達するのが早くてずるいわ」と言われたのを覚えています。8ヶ月の滞在の間に、就職が決まっている支社長から数度お手紙をもらいました。たわいのない内容でしたが、何と自筆によるもの。

 

その他にも時々電話までもらいまるで三顧の礼。これは本気でその会社に就職しなければと思う反面、そこまで自分を買ってもらえたのかと、とても嬉しくなりました。後で分かったことですが、日本に送った経歴書がかなりオーナー社長に気に入られていたのでした。入社の際は、本社採用になるのか現地採用になるのかという問題がありました。その方が何となく確かな気がして本社採用を希望したのですが、一般的には現地採用の方がお給料などの条件が駐在員より落ちるのですが、子会社社長によると現地採用の方が給与の面など条件等で支社長の自由裁量で融通を利かせられるとのこと。私の求めていた給与額は決して低くなく、その金額を可能にするのは本社の人事では無理で、支社長の裁量で決められる現地採用の方が良いとのこと。それがゆくゆくは間違った選択だとはその当時はつゆとも思わずにお任せるることになりましたが、お給料は希望通りいただけることになりました。

 

5. ​2度目のプー太郎生活

入社の当時は、日本でバブルがどんどん膨らんでいた後期の1990年頃。特にこれから海外で展開していこう、あるいは既に海外展開をしていても、今後ますます力を入れていこうと考えていた日系企業が、海外経験のある社員を広く求めていました。そんな中で私の場合、一応英語とドイツ語ができて、輸出入に関わり、在庫、売上、利益の集計や販売促進、そしてPCのソフトまで会社の業務として経験していたことが詳しく経歴書に出ていたので、かなり貴重な人材と思われたようです。でも暫くしてバブルが弾けてリストラが始まり、現地採用だった私の肩がたたかれることになりました。

 

結局その会社には3年間だけお世話になりました。オーナー社長からの直々の夜の電話で起こされたり、アメリカに短期留学させてもらえたり、留学先のイギリスにまで電話をしてきたり、自筆の熱いラブレターを書いてきた子会社社長から肩たたきをされた時に、その頃仲良くなっていた同じ会社の駐在の人たちから、「そんな話をすぐに受けちゃダメだ、弁護士にお願いして粘るべきだ」と言われましたが、来る者を拒まず、去る者を追わずではありませんが、追われる者渋らずにすぐに退社して、2度目のプー太郎になりました。

 

でもそれほど落胆はしていませんでした。職は必ず見つかると思っていたからです。もし見つからなければ自分の望む条件を下げれば良いだけのことです。どこまで下げればよいのかは分かりませんが、自分が望む条件を下げていけば見つからない仕事はないという割り切った考え方です。しかも仕事を探している間はドイツ国家から失業手当までいただけます。でもプー太郎が1年も続くとは思っていませんでした。今回の就業期間は僅か3年と短かったのですが、それでもやはり仕事は真剣に全力投球していたので、最初の半年間は仕事から解放されて気が楽で楽しかったのを覚えています。でも半年を過ぎる頃からは本当に仕事が見つかるだろうかと心細くなってきました。

 

それでも辛抱できたのは、会社をクビになったことを聞いて、銀行の人がこんな話しをしてくれたからです。「バブルがはじけたこんな不景気な時でも、元気のいい日本の会社が年間40社もドイツに出て来ているんですよ!」それを聞いて、そういうドイツに進出してくる会社の中でも、自社でその人材を用意できない会社があるのではないか? もし自分の会社でそのスタッフを用意できなくても進出してきたい場合、現地でその責任者を探さないだろうか? という考えを持つにいたりました。

 

そこでそういうポストを見つけられるまで探すことにしました。1年ほどの時間が過ぎた頃、その頃はもうこれといった就職活動もせずに何となく惰性で過ぎていたのですが、何と、丁度考えていたようなポストのお話が友人から出てくるではないですか。友人が勤めていた駐在事務所の経理を任されていた大手会計会社、同じようにそこに経理業務を依頼していた日本の商社のドイツ子会社、そして同じ系列の日本の子会社、そしてその商社という長い経路を通じて、ドイツに駐在事務所を設立したいという紙幣と関係する製品のあるメーカーとご縁ができたのです。

 

でも実はそのお話、以前にも同じ友人から聞いていたのですが、その友人に借りを作るような気がして嫌だったので、一度放ってあったのです。しばらくしてその友人から「例の話、会計会社の人に会いに行った?」そうか、行かないとその友人の顔もつぶれてしまうのだと気がつき、さらには他に何もお話が出てこないので焦っていたこともあってコンタクトをしてみました。

6. 願ったり、かなったりのポジション獲得

1年かかったとはいえ、現地でのことを任される願ったり叶ったりのお話。大手会計会社、そしてすぐその後に日本の商社のドイツ子会社まで早速面接に行き、私のお話はそのメーカーまで届きました。幸いにそこも資格に大卒と明記していなかったのでしょうか、出張してくる海外営業の課長さんとの面接になりました。お話を聞いてみると近くハノーバーで行われる展示会に出展するとのこと。その展示会でまずアルバイトをしてみてお互いに知り合うアイデアが出て、数日間展示会のお手伝いをすることになったのです。展示会の時には本社の重役さんも2人来ていて改めての面接。

 

アルバイトのお手伝いは気に入ってもらえたようで採用ということになりました。そこでまずは1年間大阪の本社に行って研修を受けるということになり、その準備を行いました。既にその頃15年もドイツに住んでいた人間にとって、1年間も日本に行くのは簡単なことではありません。いろいろと準備が必要です。購入してしまっていたアパートのこともあります。イギリス留学中にできたスペイン人の恋人がドイツに嫁いでくるということで購入したアパート(日本ではマンションになるのでしょうか)がありました。結局彼女はドイツの暗さが気に入らず、逆に私がスペインに来るように説得されたのですが、ドイツ語、英語の後にさらにスペイン語を勉強してスペインで職を探す元気まではなかったので2人は別れることになりました。

 

それでもアパートの借り手は見つかり、その頃ハマッていたスカッシュを日本でも続けられるように準備した大きなトランクをひとつ持って大阪に行きました。19歳でドイツに来て15年、久しぶりの本格的な日本滞在。しかも1年間。大阪の夏の暑さにはびっくりしましたが、会社の近くで家族向けの大きな寮に泊まらせてもらい、生まれて始めて日本でのサラリーマン体験が始まったのです。経験すること全て始めて。しかも浦島太郎。周りの皆さんがいろいろと助けてくれたのだと思いますが、優しい人たちばかりでした。大変だったのは、人事とのお給料の交渉。入社したのにもかかわらず、お給料の金額がまだ決まっていませんでした。

 

アメリカに子会社があるものの、駐在員や出向者の数が少なくて人事にその方面でのこれといった規定がまだなく、その都度その都度本人、上司、人事の間で決めていたようです。つまり、駐在とはいえ普通一般と比べると高めになる駐在さんのお給料という考え方がありません。前回は現地採用で失敗しましたが、今度の起業は現地にまだ組織がないので現地採用はあり得ません。れっきとした本社採用。そして本社から駐在としてドイツに行くことになります。こちらが希望する金額はそういう金額。交渉には何週間もかかり、何度も交渉を重ねました。その内に上司は「俺はもうどうでもいいから君と人事とであんじょうやって」と言い出す始末。人事の責任者はさすがそういう交渉を続けてきているだけあって手ごわかったのですが、海外では日本食良品や日本書籍などとても高いことなどを説明して何とか両者折り合いのつくあたりで決着となりました。

 

1年の予定であった研修期間は、海外営業部が待ちきれないために半年に縮まり、その後結局3ヶ月まで縮まってしまいましたが、特殊な製品を海外で販売するので、その開発部門で受けた研修は大変に有意義なものでした。大阪滞在の間は、その頃ハマッていたスカッシュも週末にできましたが、日本ではスカッシュが非常にマイナーなスポーツで、東京と大阪にその施設があり、ドイツでは地方のレベルの私でも、日本では元全日本女性チャンピオンという人に勝てるくらいのレベルでした。

 

3ヶ月間の日本研修中に、ドイツ駐在事務所設立の稟議書は私が書くことになりました。その稟議書がまだ作られていなかったのです。普通はそういう稟議書ができてからプロジェクトがスタートするものではないかと思いましたが、とにかく書いたことのない稟議書、周りの人助けてもらいながら何とか作って無事に決済されました。駐在事務所の設立の地なのですが、勝手知ったるデュッセルドルフを当然のごとく勧めたのですが、直属の上司の強い希望がフランクフルト周辺だったので、日本人には有名なリューデスハイムのライン川の反対側のビンゲンという町になりました。

 

その理由は、お手伝いをしていた展示会の最中に偶然にもビンゲンが存在するラインランドプファルツ州の経済振興公社が誘致にやってきて、その州に進出しないかと誘われていたのでコンタクトを続けていましたが、ビンゲンならフランクフルトまで車で40分。そこならその公社がいろいろと手伝ってくれるということで決まったのです。実際にも駐在事務所の物件もその公社が探してくれた候補のひとつでした。駐在事務所は自分が寝泊りする住居と兼用です。

 

3ヶ月間日本に行っている間に気になったのは、貸していたアパートの家賃が銀行の口座に全然入っていないことでした。貸した相手は空手を教えていると言う日本人の紹介のイギリス人。その職業はプロのボディーガードでした。貸したアパートは、それまで自分が住んでいてスペインから花嫁を迎え入れるはずの何から何まで揃っていたものです。家賃は高めでした。でもそのプロのボディーガード、どうやら高給取りのようです。ボディーガードというとその当時映画で「ボディーガード」というのがあり、それを想像するとやはり高給取りなのは間違いないのかもしれません。実際に彼が言うことには以前あのイギリスのサッチャーさんやアメリカで有名人のドライバーやボディーガードをしたことがあるとのこと。

 

今回はデュッセルドルフのある企業オーナーのボディーガイドの仕事で来たそうです。実はデュッセルドルフとその周り、結構大きな会社のオーナー社長さんが住んでいます。ところがどうやってもその彼と連絡が取れません。そうこうしている間にその彼の友人のひとりだというイギリス人女性から電話がかかってきました。何でも彼は雇い主のオーナー社長を刺し殺してしまって現在留置場にいるとのこと。彼の車を売って現金を作るけど、それを家賃に当てるのではなくて、今後の彼の必要費用に当てたいとのこと。まさかそこでノーは言えません。話によると自分の子どもたちを虐待しがちなオーナー社長を見るに見かねて助けに入り、刃物も加わってもつれあった最後に刺してしまったそうです。

 

格闘技や護衛術はお手の物でしょうから、オーナー社長さんに勝ち目はありません。でも刑は6年ということだったので、子どもを助けるという背景や、殺意はなくて自己防衛的な面もあったので情状酌量だったのでしょう。どちらにしても私の3ヶ月の家賃は消えてしまったのでした。

7 いよいよひとり駐在開始

 

そんなこともありましたが、今の自分は就職が決まってこれからはひとりながらも日系メーカーが新しく設立する駐在事務所を切り盛りしていく身。騒いでもどうにもならない家賃はすぐに諦めて仕事を始めました。アパートはデュッセルドルフ。自分が住むのはビンゲン。両者の間には約200kmの距離があります。しょうがないのでアパートはその後も日本人の駐在さんに貸し続けることになりました。でも日本人に限ることにしました。日本人の駐在さんなら店子さんとして一番安心です。そんなことで始まったビンゲンでのひとり駐在。

 

そのメーカーの特殊な製品を何とかヨーロッパで普及させたいといろいろと手を尽くしました。関係する展示会を調べて視察に行く。ドンピシャと思える展示会には出展してしまう。その製品を必要だと思えるような潜在客へアプローチする...等、思いつくことは何でもやってみました。直属の上司は日本。報告書はうるさく求めるものの、自分が何をしたら良いかの具体的な指示はなくて自由です。そういう意味では幸運でした。全て自分で考えて動くしかありません。叔父の会社で経験できたさまざまなことも役に立ちました。イタリアでのある展示会を訪問した時です。潜在客のブースを全て回って挨拶をしている時でした。

 

ある会社のブースでは既にアメリカ製の類似の製品を使っていましたが、サービスに不満を持っていました。展示会でたまたま訪れた潜在客のブースでそんなことを聞けるとはしめたものです。その社長さんはしきりにサービスの点を気にしています。アメリカの製品の会社はよほどサービスのフォローが悪かったのでしょう。こちらの製品は日本製で優秀だし、もし何かあればドイツからフルサポートを行うということでこちらの製品に切り替えてくれたのです。そこの社長さんはその後イタリアのディストリビューターにまでなってくれて、それは私が同社を辞めて10年以上経つ今でも変わらないどころか、ヨーロッパで最も多く売ってくれている販売会社です。

 

彼は大学で勉強した電子技術のバックグラウンドがあり、その後ドイツでヨーロッパ中のお客さんを集めて行った技術セミナーの時には講師として登場してもらったり、その後ずっと個人的に家族ぐるみのお付き合いをしてもらい、さらに彼は日本ファンにまでなってくれて日本語を勉強するほどになり、何度も一緒に日本に行きました。そのように関係する展示会への出展、視察、製品を必要と思われる企業の訪問をしばらく続けていると、自然に注文が入り始めました。その製品は日本では普及しきったごく当然のものでしたが、ヨーロッパではまだ普及が遅れていたものでした。アメリカでは丁度普及が始まって社の売上にかなり貢献するようになっていたのです。それをヨーロッパでも始めようという試みがその駐在事務所の設立でしたが、偶然幸いにもその製品のヨーロッパでの普及も始まったのです。

 

ビンゲンのひとり駐在は結局2年くらいでしたが、どういうわけか日本にいる直属の上司は飛行機を使うことを嫌がるので、しょうがなく目一杯車を使って出張したために、一日に1.000km走ることはざらで、2年の間に17万kmも走りました。オートバイレースをやっていたからというわけではありませんが、乗り物イコール飛ばすものとばかりに、制限速度のないアウトバーンでアクセルは常に踏みっぱなし。本社の決裁を何とか通った1台目の車はフォルクスワーゲン、パサートの一番上級車で時速250km〜260kmは出るハッチバック。アウトバーンで飛ばしている時に急に煙を吐き出し、あわてて路肩に止めてボンネットを開けてみるとキャブレターが燃えていました。

 

ドイツは日本の北海道くらい涼しいとはいえ、30度を超える夏の暑い日にクーラーをがんがんかけてフルスピードで走って酷使していたためかもしれません。それでも僅か2年の新車リースだったので、良く考えてみればクレームの対象です。当時そのことに気がつかずに普通に修理してしまい、メーカーに訴えなかったことが悔やまれます。後で詳しく出てきますが、謙虚を美徳とする国民性はこういう時に損をします。ドイツの学校教育のように自己主張を叩き込まれていないので、自分の利益や利益の損失などの時に主張できずについつい泣き寝入りをしてしまいます。でもそうした長距離ドライブの苦労の甲斐もあって、最初4億円ほどだった製品のヨーロッパでの年商はありがたくその後伸び続てくれて、中途で採用された私の意見も少しづつ本社で通るようになって来ました。

 

そこでついに駐在事務所をデュッセルドルフに移せることになり、現地スタッフも2人雇って事務所と住む場所も分けることになりました。私の仕事を全般的にサポートしてくれる秘書的な存在の女性と、売上をさらに上げるために販促を手伝ってくれる男性スタッフです。ここでちょっと注意ですが、駐在事務所は営業行為ができません。商品の仕入れ、販売ができず、請求書を発行することもできなければ、本社の営業をサポートするような業務もできません。その代わりに納税の義務がないどころか、ドイツの高い消費税が後で戻ってきます。もし営業行為を行ってそれが税務署に見つかると大変なことになります。

 

ビンゲンからデュッセルドルフに移り、駐在事務所を現地法人に変更したのにはそういう理由もありました。しばらく3人体制の駐在事務所でしたが、現地法人設立を準備するということでさらに数人現地スタッフを雇い、その数が7人となった時に現地法人を始めたのです。4人目のスタッフはエレクトロニクスの優秀な技術者。でもその技術力はホビーから来るもので、学歴は低いので希望給与額も低いので、雇う方にとっては幸いでした。会社の製品は完成品ではなく、大きな機械に入っていく大きな部品です。お客さんの技術者とのやり取りには簡単な基盤の設計ができる程の彼の実力にはとても助けられましたが、この時は彼がその後私が自分で会社を始めざるを得なくなった時にも「雇ってくれ」と言ってくるとは勿論夢にも思いませんでした。

 

それまでの事務所は100㎡程の小さな3部屋オフィース。現地法人設立準備でスタッフの人数が増え、倉庫も必要になったのでそれなりの建物に移ることになりました。幸いにも同じ大家さんの物件でちょうどいいサイズのオフィース+倉庫が空くことになり、そこに入ることになりましたが、その建物を見てこの会社にお世話になっている間に経験した最も大きな不安を覚えたのです。「こんな大きな建物に移ってしまって大丈夫だろうか? それに見合う売上は本当に得られるのだろうか?」

 

 

続く

 

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